さよなら日記

毎日生きていると何かをなくしている 。脳細胞は1日につき10万個死滅し、細胞は劣化し死へと近づいている。昨日の出来事はすでに忘れかけ曖昧だ。去年の昨日は何をしていたかは、絞り出すようにしなければ思い出せない記憶だ。 そこで忘れないうちに、自分の回りで起こった出来事や感じたことを少しでも記録していこうと思う。

さよなら夏。「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」アニメから見るか?実写から見るか?

映画アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が2017年9月公開中だ。
その昔、実写版の監督岩井俊二作品である「Love Letter」や「四月物語」を見て、儚いストーリー、スローや光を使う美しく繊細な岩井美学に魅了された。「リリィ・シュシュのすべて」は、相変わらず美しい映像の中での重苦しいストーリー展開に息苦しくなり、空気空気と求めて見ることを封印したが惹きつけられる作品だった。
今回、アニメ化された作品のオリジナル版は
かなり昔に見ただけでストーリーはほとんど忘れていたが、小学生の少年少女達の夏の一日を岩井タッチで、儚く切り取った作品だと記憶している。

そして先日アニメ版を鑑賞してきた。
アニメ版の作品の中でも、実写版の中で見た光景、ストーリーが展開され、昔見た時の記憶が徐々に思い出されてきた。
しかし段々ストーリーが進行していくうち、記憶と乖離しつつあることに気づいた。そして叫んだ。
「そんなに時間軸を歪めてしまっては、幻想に押し潰され、もしも玉が濁って魔女になっちゃうよ!ほむらちゃん!」
そして登場するかわいい白い生き物が、
「君たち人間は、どうして"もしもあの時"なんてことを考えるんだい。
もしもなんて考えても過去が変わることなんてないことは、自分でも分かりきっていることじゃないか。わけがわからないよ。でも、愚かだとは言わないよ。その"もしも"と夢想すること、そのことで君たちの文明が形造られたきたことは確かなことらしいからね。キュピィ!」と出て来る姿を僕は見た気がした。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」をアニメ化するということを知った時、実写のものをアニメ化するということに、ちょっと疑問に思ってはいた。映像やストーリーをそのままアニメ化しても意味があるかわからなかったからだ。ストーリーも地味な話ではある。そもそも原作ものやリメイクなどは、同じストーリーの確認だけになってしまうので、ある程度違わないと面白くないはず。見る側も作る側も。だからオリジナルと違うのは、当然だとは理解している。ただほとんどの場合はリメイクしたものは違和感がある。やはり最初に見たり読んだりした時の記憶と感想を引きずってしまうからだろう。

 今回映画を見たあと、岩井俊二監督自身が執筆した小説を実写版のストーリーを“確認"するために読んでみた。
こちらはもしもの世界がない展開。付け加えられたらしい前日譚が面白い。小学生らしい言動や行動。アニメ版では存在が薄い典道の同級生たちの躍動。一人途中道中からいなくなるが、オリジナルだろうか。
展開が微妙に記憶と違うが実写版と同じく、打ち上げ花火のように一瞬輝き、やがて消える儚さを感じる。
この小説版のあとがきが興味深い。それによるとオリジナル版を作る際、銀河鉄道の夜を意識したらしい。
僕はオリジナル版には銀河鉄道の夜は特に感じられなかった。むしろアニメ版のほうが意識しているように思った。オリジナルにはない電車に乗って、水面を滑るように走るシーン。また幻想的空間のシーンで。手元にある「銀河鉄道の夜」を拾い読みする。終盤ブルカニロ博士が登場する場面。

「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
 だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」

そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。
するといきなり、ジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりになってしまうのを見ました。
だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。

「ありがとう。私はたいへんいい実験をした。私はこんなしずかな場所で遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。お前の言った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとおりまっすぐに進んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談においでなさい」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」ジョバンニは力強く言いました。


カ厶パネルラ、ジョバンニ、ブルカニロ博士はアニメ版ではそれぞれなずな、典道、なずなの父と変換すれば良いのだろうか。そうすると、打ち上げ花火の形が下から見るのと横から見るのでは違うのか確かめる行動やラストの意味も理解できた気がする。

またこのブルカニロ博士なる人物が出てくる場面は「銀河鉄道の夜」の最終稿からは削除されてしまっている。これも、”もしも”の世界だ。

今回「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を見ることになる前日のこと。吉祥寺の映画館で7年前に公開した岩井俊二監督作品「ヴァンパイア」をリクエスト上映し、トークイベントも行うということなので、まだその作品をみていなかった僕は駆けつけた。
映画は映像は相変わらず美しいが、話は陰鬱だ。インターネットの自殺サイトで一緒に自殺をする人物を募る男が、相手から注射器で血液を吸い取り自殺幇助する。しかし自分は死なずにその血液を自分がヴァンパイアと妄想(?)し飲む。それは自分の心の虚無感を埋め、自殺する相手の心情に寄り添うためだろうか。

傷ついて 傷つけて
報われず 泣いたりして
今はただ 愛おしい
あの人を 思い出す

誰かの想いが見える
誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える
悲しみの向こう側に

この歌詞と同じなのだろうか。
(シュールすぎて考え疲れたのか終演後の、肝心のトーク時間はほとんど寝てしまっていた。)
そしてラスト。突然物語が戻り、自殺者の一人がこれから自殺する模様を自撮りした映像が流れる。
そこで自殺者が主人公に、「もしこれが私の夢の中なら死なない。」と言う。そして主人公は言う。「もし僕の夢だったら?」
そこで映画は唐突に終わる。

間違いなくアニメ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は岩井俊二印の作品です。