さよなら滝の谷の小屋 ジャンダルム⑤
眠りからふと目覚めたのは真夜中過ぎだったろうか。目を開いてもてもそこには漆黒の闇が支配している。再び目を瞑り、雨はどうなったのだろうとぼんやり思いながら、再び眠りに入ろうとした時。小屋の外でざっざっざっと音がした。まどろみかけた頭に一気に緊張が走る。そこへまたざっざっざっ。砂利を踏みしめる音だ。小屋の外に誰かがいる・・・のか。
足音のような音は小屋に近づいたり遠のいていくといった感じに、断続的に聞こえてくる。登山者の中には真夜中に歩く物好きもいるらしいし、また道に迷った人なのか、、、。ただ小屋の中には入って来ないようだ。
それまでその音に全神経を集中させていた僕は、不意にそれまですっかり失念していたこの小屋に纏わる話を思いだした。戦慄が体中を駆け抜ける。
いま居るこの小屋は、沢の奥にある谷の険しい岸壁を岩登りして滑落した人、沢で流れてしまった人、または冬の雪山で遭難した人、そうした事故で亡くなった人たちの、一時の安置場所になることがあることを。
この小屋に泊まった人が体験したというおぞましい怪異現象のこと。
夜の訪問者のことを、、、。
いまでは小屋の回りを歩きまわる複数の足音に加え、小屋の入り口の扉を引っ掻くようなかすかな軋み音も混じってきていた。僕は小屋の外に出てその正体を確かめる勇気も振り絞るだすこともできず、すっかり恐怖に怯えきり、寝袋のなかに深く深く潜り込む。そしていっさいの情報を遮断するように耳を塞ぎ胎児のように体を丸め込み、双方の瞼を強くぎゅっと閉じたのだった。
つぎに目を開いたときは小屋のなかがぼんやり見えるようになっていた。すでに夜は開け小屋のなかに、唯一の窓からわずかな日の光が訪れていたのだ。
恐慌をきたして、もはや眠ることなんてできないと思っていたが、どうやらいつのまにか眠ってしまっていたようだ。昨晩の恐怖をもたらした音の正体は、小動物の徘徊や風の音などだったのだろう。明かりの前ではまったく気にも止めないことを、禍々しい闇が心を蝕み恐怖の妄想を増幅させたのだ。
僕はシュラフから抜け出し、小屋の扉を開け放ち、外に出て空
を眺めた。雲におおわれていながらも薄日があり、雨は降っていない。台風の影響となる大雨になるにはまだしばらく猶予がある気がする。沢の方を見ると激しい流れだが橋は健在だ。沢の氾濫ことはいまのところ、まったくの杞憂に過ぎなかったのではないだろうか。
あの山小屋の親爺め!心のなかで悪態をつきながら小屋の内部に戻ろうとしたそのときだ。
僕の寝床からわずかに離れたところの板の間に水溜まりができていることに気づいた。昨晩眠りにつくまえにはそんな状態にはなっていなかったし、雨漏りようなそんな音もしていない。
訝しい思いで凝視しているその水溜まりが、わずかに茶色に濁った色をしていることを認めた時だ。昨晩の忌まわしい音が蘇ってきた。
つぎの瞬間、この幾日かの険しい山を歩いた時に感じた心胆を寒からしめた記憶を、遥かに超越した名状しがたい恐怖の深淵へと、僕は落ち込んでいったのだ。
僕には昨晩のこの小屋の内部の光景が、はっきりと見えた。
深い漆黒の闇のなか、縮こまり眠っている僕のすぐそこに、何者かがぼんやりと立ち尽くしている。僕一人しかいないはずのその小屋には、いつのまにか誰かがいる。
男か女かは判然としないが、そのものの全身はびっしょりとずぶ濡れだ。濡れそぼったそのものから溢れ、滴り落ち、滲みだした濁りをもった水が、足元にじわりと拡がりたまっていく。
そのものは雨の夜、かつて肉体に宿っていた時の記憶から、そのときに成し得なかった濁流の沢を渡る行為を繰り返しているのだ。
山小屋の主人は確かにこう言っていた。
「何日もここに留まることになる」と・・・。
この水の地には永劫に留まることになってしまった魂があるのだ。
さよなら滝の谷の記憶 ジャンダルム④
山小屋の主人になかば追い立てられるように出発したのだが、今の時刻からでは登山口に到着するのは20時ぐらいになるかもしれない。そこで困ったの登山口からの足だ。今回は天候や体調悪化による下山ルートの変更を考慮し車を乗ってこなかった交通機関を利用するしかないが、その時間ではすでにバスはないだろう。
宿も探すのも困難だろう。とそんなことをつらつらと巡らせていると、途中に避難小屋があることを思い出しました。
その小屋は問題の沢を渡ったすぐのところにあり、今晩そこを使わせてもらい明日早く出発するのは、最良の考えのように思われた。
そうこうするうちに山小屋のひとが注意した沢まで辿りついた。沢の水の流れは激しい勢いを帯びていて、その上に太く長い角材を束ねた簡素な橋が架かっている。
山小屋の人が強く懸念するのは当然で、この沢では大雨のあとの増水で、橋が流されたときに無理をして水につかりながらも渡ろうとした登山者が流されなくなってしまったということが繰り返されている。そのため山小屋の使命として
悲劇を繰り返さないように、カメラを設置し沢の状況を公開し、注意喚起している。
そんな沢にかかり濡れた橋を慎重に渡り避難小屋に到着。扉を開くとだれもいない。唯一の窓から差し込む陽の光だけの薄暗い建物内部は、土間とそこから上がった板張りの床がある。5、6人は寝られそうだろう。いろいろと紆余曲折があった一日だったがようやく体をやすめることができそうだ。背負っていた荷を下ろし、濡れた雨具を脱ぎ土間の上に干す。それから湯を沸かし食事をすませ、熱い紅茶を飲み終えると20時過ぎ。すでに陽が落ち窓からの光が届かない小屋は、持参した電灯消すと真っ暗だ。もうこれからは誰も来ないだろう。今晩はこの小屋は自分だけの貸し切りだ。明日は早く出発することにして寝袋にもぐりこんだ。
さよなら恐怖心。ジャンダルム③ キレット攻略
本日は昨日のジャンダルム越えから引き続き、キレットに突撃予定だが、天候が問題だ。小屋の受付に貼り出されていた天気予報では午後から雨になっている。朝早く出発すれば雨に当たらないかも。と思っていたが、起きた時間はすでに5:20。
前日行程がよほど疲れていたのだろう。
6時出発。雨が降る前に辿りつきたい。



槍も見える


北穂分岐で涸沢方面に行こうか迷うが、とりあえず北穂高小屋へと向かう。
北穂高小屋9時10分

何も見えない。

行くか迷うが何人かキレット方面から来ている人もいるので、突撃する。
まずは下りから。やはり下りは恐ろしい。

印が多い


最後の上り。



雨が降って来たようだ。
といっても霧雨。
そして南岳到着。12:40

ジャンダルムを超えた身ではキレットはさほどではないのか。あまり疲れてはいない。ジャンダルムは距離が長いから疲れが貯まる。
ここに来るまでにすでに槍ヶ岳方面に行くのは断念することは決定していた。ここにくるまでの核心部に雨が降ってこなかったのは僥倖だったのだ。問題はテントをここに張るか、槍平まで下るかだ。
その前に腹ごしらえとする。

いまは雨が霧雨のような感じだか、やはり台風が近づいていることもあり、稜線では危険と判断し下ることに。
どんどん下る。旗、目印が多い。


木道が崩壊しているところも。雨脚もすこし強くなったようだ。
槍平小屋16時
ここでテントの受付を記入し提出しようと呼び鈴を鳴らしたところ、受付の人から
「下まで行けませんか?
明日 明後日は沢が渡れなくなります。停滞して
も構わなければお泊りください。」と言われる。
僕の予定では一日予備日があるからここで2泊しても大丈夫なのだが、ここで2泊しても意味がない。
今現在霧雨なのだが、渡れなくなるほどだろうか。明日早くならまだ大丈夫ではなかろうか。
「でも渡れなくなるかは分かりませんよね。」と聞くと
「普段ここまで言いません。ほぼ確実です。みなさん予報を甘くみてしまっています。何日もここに留まることになります。」
以前槍ヶ岳から下ってきた時、いまよりもっと強い降りに辺り、嫌になりテント泊したが、そんなこと言われなかった。今回は台風と
いうことと、何年か前に流された人がいたので、山小屋の使命として慎重にならざるを得ないのだろう。
助言のとおり先へ進む。経験豊富な山小屋の人の確信を持った忠告を無視するわけにはいかない。
折角降ろした荷を背負いなおし、雨の中をとぼとぼと再び歩き出したのだった。
さよなら恐怖心。ジャンダルム突撃②
2017年9月15日
朝3時ごろまわりの人の動きで起きた気がするが、まだ暗くてまた寝てしまったのだろうか?もう4時過ぎだ。準備をしなければ。お湯を沸かしラーメンを作り食べる。テントをたたみ荷造りすると、はや5時30分。
丸山 06:00

独標 6:45

ピラミッドピーク 7:18

西穂高岳 8:13

と粛々と岩と格闘する。
暑くないためあまり水も飲まない。

天気はまあいいのだろう。

2回目だからか恐怖はさほど感じない。しかしひとつ間違えば大惨事なのは確かなことだ。気を引きしめ登り続ける。
9:55

10:36


10:58

天狗のコル 11:45

ここでようやく先行者の二人に追いつく。
ほとんどの人はどうやら西穂高岳山頂までのピストンだったようだ。もちろん3時の暗闇の中出発した人もいたはずだ。
このさきで迷い、そのせいか疲れがどっと出てくる。少し休みまた先へ進む。そろそろやつが出るはずだ!
ジャンダルムが異様な容貌を現す。13:30

そして!とうとうジャンダルムを屈服させる。

しかしこちらのダメージもかなりのものだ。
ジャンダルムの先にある下りは前回も感じたが、かなり恐怖を感じる。やっとの思いで降りていく。下りの時の脳への与える高度感たるや。滑ったら最後、奈落の底まで落ちていくのでは、というキュッと心臓を捕まれるような恐怖心はまだまだ克服できそうもない。

先ほど出会った二人はジャンダルムの麓までは僕が先に行き、ルートを一緒に迷いながらきたハズなのに、登頂しなかった。ここまできて登らないのはなぜだろう。西穂側から登るルートならジャンダルム単体は全く問題ないのに。

馬の背 15:32

登りはまあなんとか大丈夫。恐怖はあまり感じない。

そしてようやく奥穂高岳到着。15:54

ジャンダルム方面

今日の目的地 16:37

時間が掛かりすぎだ。
しかし僕の足ではこれが精一杯だ。全身の神経を張り詰め、両手両足を駆使し、心身ともに疲労消耗した一日目の長い行程が
何事もなく無事終了し心底安堵した。
今回もすれ違う人などに言われたのが、荷物多いですねということだった。しかし僕自身はかなり頑張り軽量化したのだ。いつものマウンテンダックスユーラシア80から持っていくのを厳選しカリマークーガ50-70にギュウギュウに詰め込んだ。これ以上軽量化だダウンなどを入れないとしたら寒がりの僕は凍死してしまうだろう。
そんなこんなで小屋に到着しテントを張り、小屋前で水を汲む。無料なのは有難い。
17:35

夕食はハンバーグとアルファ米、フリーズドライ味噌汁。明日の天気は午後から雨らしい。早く出発すればなんとか天気は持つだろうか。早く寝よう。
さよなら恐怖心。ジャンダルム突撃①
山の旅。そこから思い浮かぶのは、澄み切った青空の下に連なる山々の眺望だろうか。
または雪解け後の高山に咲く花や、鮮やかな紅葉の彩。日の出、日没前後の空の色の変化。頭上に覆いかぶさるように拡がる星空。そのような自然が演出する瞬間に立ち会えたときの感動はひとしおである。
そんな心の動かされる景色に到達するまでの道程、またはその帰路には計画にはなかった事象が発生することがある。天候不良。道迷い、体調不良など。
また転倒して体を擦りむく程度の軽傷ならまだしも、滑落、落石による事故等取り返しのつかない大惨事になることも・・・。
2017年9月。ジャンダルムを登ってきた。
去年ジャンダルムは経験している。前回は西穂から奥穂高岳まで、そして涸沢を下り上高地だった。
今回は涸沢岳を越えキレット、そして槍ヶ岳を目指す。
日程は14日木曜、15日金曜日に休暇をいれ、18日が敬老の日のシルバーウィークなので5日間。
気になるのは台風だ。どうやら連休中に到来するらしい。今季の夏は行方不明だ。そして週末は決まって雨の気がする。レジャー関連の経営者は天気が恨めしいことだろう。僕も今年の山行は当然雨ばかりだった。雨のなかを歩くのはもううんざりだ。しかも今回は危険地帯を歩くのだ。僕の今回の計画は台風次第だがとりあえず、新穂高温泉まで夜間バスを予約しようとした。しかしこの時期平日はないらしい。上高地まで行きも満席。しかたないので、木曜日始発であずさに乗り、松本までいくことにした。朝5時自宅を出て駅までまだバスが走ってないので、徒歩20分かけ駅までいく。駅前のコンビニで朝食や登山中や昼ご飯のパンやおにぎり、チョコなど行動食を買う。今回はほとんど軽量化のためアルファ米中心だがハンバーグやソーセージも買う。松本でも買えるかと思ったがついでだから買ったおいた。そして新宿まで行き、7時丁度のあずさに乗る。

車内でコーヒー&スイーツを購入する。スイーツは今は食べずおにぎりをほおばる。あずさはバスよりは快適だが、寝てしまえば同じ。9時40分に到着。松本バスターミナルで新穂高温泉までの乗車券を購入。乗車時間11時5分まで時間があるので昼御飯とする。駅ビルの唐揚げ屋。
ちょっと食べ過ぎ。しかし当分まともなのは食べれないはずだから良いのだ。
ここから新穂高温泉までバスだが、この便は直行便ではなく、平湯で乗り換えなければならない。新穂高温泉までのバスはコンセントまでついている座席で快適。平湯からのバスはただの路線バスだった。
新穂高温泉13時16分到着。第一第二ロープウェイを乗りつぎ山頂駅へ。すでに14時20分。乗り継ぎ乗り継ぎで時間が過ぎていく。
山頂駅で水を汲む予定が、以前水を汲んだ場所と違う出口から出たため忘れる。もう先へと進んでいたため西穂山荘目指す。が、やけに疲れてしかたない。1日目だからか。とりあえず西穂山荘にいったらテントを急いで張り、名物ラーメンとビールでもと思い描き頑張る。15時20分山荘到着。とりあえずテントの受付しようと山荘内に入ると、衝撃の事実が目に飛び込んできた。

仕方ないと諦め、すごすごテントを張る。山荘で有料で分けてもらった水でお湯を沸かし、紅茶を飲む。あずさ車内で購入したベルギーチョコレートケーキをお供に。ラジオを聞き地図を確認そしてまた昼寝。そうこうするうちになんだかんだいって日が暮れていく。
夕食はコンビニおにぎりとフリーズドライの豚汁。そしてウィスキーをチビりと。明日は早い。しかも今回の行程の核心部だ。もう寝よう。
さよなら寝台特急 その①
2014年5月寝台特急
が廃止と発表された。
そのニュースを聞いた時、僕は衝撃を受けた。
なぜなら、いまだかつて寝台特急列車なるものに乗ったことがなかったからだ。今回廃止される寝台特急列車はすべて北海道行きだ。
北海道への僕の旅の手段はといえば、
新潟までバイクで行きフェリー、青森までバイクでで自走でフェリー、または東北パスを使用して鈍行で目指す。もちろん飛行機でも行ったことはあるが、lccだ。lccが運行されるまでは、パッケージツアーを利用してなるべく安くいく北海道スキーだった。要するに寝台特急列車=高いというイメージが僕の中にあり、旅の手段として検討されなかったのだろう。この理由が寝台特急が廃止される元凶だ!
猛省しなければ。そして今回は最終列車だ。乗らなければならない。
まずは乗車券獲得だ。
さよなら夏。「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」アニメから見るか?実写から見るか?
映画アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が2017年9月公開中だ。
その昔、実写版の監督岩井俊二作品である「Love Letter」や「四月物語」を見て、儚いストーリー、スローや光を使う美しく繊細な岩井美学に魅了された。「リリィ・シュシュのすべて」は、相変わらず美しい映像の中での重苦しいストーリー展開に息苦しくなり、空気空気と求めて見ることを封印したが惹きつけられる作品だった。
今回、アニメ化された作品のオリジナル版は
かなり昔に見ただけでストーリーはほとんど忘れていたが、小学生の少年少女達の夏の一日を岩井タッチで、儚く切り取った作品だと記憶している。
そして先日アニメ版を鑑賞してきた。
アニメ版の作品の中でも、実写版の中で見た光景、ストーリーが展開され、昔見た時の記憶が徐々に思い出されてきた。
しかし段々ストーリーが進行していくうち、記憶と乖離しつつあることに気づいた。そして叫んだ。
「そんなに時間軸を歪めてしまっては、幻想に押し潰され、もしも玉が濁って魔女になっちゃうよ!ほむらちゃん!」
そして登場するかわいい白い生き物が、
「君たち人間は、どうして"もしもあの時"なんてことを考えるんだい。
もしもなんて考えても過去が変わることなんてないことは、自分でも分かりきっていることじゃないか。わけがわからないよ。でも、愚かだとは言わないよ。その"もしも"と夢想すること、そのことで君たちの文明が形造られたきたことは確かなことらしいからね。キュピィ!」と出て来る姿を僕は見た気がした。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」をアニメ化するということを知った時、実写のものをアニメ化するということに、ちょっと疑問に思ってはいた。映像やストーリーをそのままアニメ化しても意味があるかわからなかったからだ。ストーリーも地味な話ではある。そもそも原作ものやリメイクなどは、同じストーリーの確認だけになってしまうので、ある程度違わないと面白くないはず。見る側も作る側も。だからオリジナルと違うのは、当然だとは理解している。ただほとんどの場合はリメイクしたものは違和感がある。やはり最初に見たり読んだりした時の記憶と感想を引きずってしまうからだろう。
今回映画を見たあと、岩井俊二監督自身が執筆した小説を実写版のストーリーを“確認"するために読んでみた。
こちらはもしもの世界がない展開。付け加えられたらしい前日譚が面白い。小学生らしい言動や行動。アニメ版では存在が薄い典道の同級生たちの躍動。一人途中道中からいなくなるが、オリジナルだろうか。
展開が微妙に記憶と違うが実写版と同じく、打ち上げ花火のように一瞬輝き、やがて消える儚さを感じる。
この小説版のあとがきが興味深い。それによるとオリジナル版を作る際、銀河鉄道の夜を意識したらしい。
僕はオリジナル版には銀河鉄道の夜は特に感じられなかった。むしろアニメ版のほうが意識しているように思った。オリジナルにはない電車に乗って、水面を滑るように走るシーン。また幻想的空間のシーンで。手元にある「銀河鉄道の夜」を拾い読みする。終盤ブルカニロ博士が登場する場面。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。
するといきなり、ジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとしたただもうそれっきりになってしまうのを見ました。
だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「ありがとう。私はたいへんいい実験をした。私はこんなしずかな場所で遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。お前の言った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとおりまっすぐに進んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談においでなさい」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます」ジョバンニは力強く言いました。
カ厶パネルラ、ジョバンニ、ブルカニロ博士はアニメ版ではそれぞれなずな、典道、なずなの父と変換すれば良いのだろうか。そうすると、打ち上げ花火の形が下から見るのと横から見るのでは違うのか確かめる行動やラストの意味も理解できた気がする。
またこのブルカニロ博士なる人物が出てくる場面は「銀河鉄道の夜」の最終稿からは削除されてしまっている。これも、”もしも”の世界だ。
今回「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を見ることになる前日のこと。吉祥寺の映画館で7年前に公開した岩井俊二監督作品「ヴァンパイア」をリクエスト上映し、トークイベントも行うということなので、まだその作品をみていなかった僕は駆けつけた。
映画は映像は相変わらず美しいが、話は陰鬱だ。インターネットの自殺サイトで一緒に自殺をする人物を募る男が、相手から注射器で血液を吸い取り自殺幇助する。しかし自分は死なずにその血液を自分がヴァンパイアと妄想(?)し飲む。それは自分の心の虚無感を埋め、自殺する相手の心情に寄り添うためだろうか。
傷ついて 傷つけて
報われず 泣いたりして
今はただ 愛おしい
あの人を 思い出す
誰かの想いが見える
誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える
悲しみの向こう側に
この歌詞と同じなのだろうか。
(シュールすぎて考え疲れたのか終演後の、肝心のトーク時間はほとんど寝てしまっていた。)
そしてラスト。突然物語が戻り、自殺者の一人がこれから自殺する模様を自撮りした映像が流れる。
そこで自殺者が主人公に、「もしこれが私の夢の中なら死なない。」と言う。そして主人公は言う。「もし僕の夢だったら?」
そこで映画は唐突に終わる。
間違いなくアニメ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は岩井俊二印の作品です。